History

沿革

柏商会100年のあゆみ

第1章

ビルの高層化と共に技術を高める

6

柏商会の信頼と団結力を高める

社員工事部制の開始

境紀世治が代表取締役に就任したころ、職人の高齢化が進み、若い職人に仕事を依頼しようにも集まらないという課題があった。当社に限らずガラス工事店の多くは、社員が営業と細々とした仕事を担い、人手が必要な工事は案件ごとに職人に声をかける体制を取っていたが、限界を迎えていた。

そこで当社では、工事を担う若い人材を社員として雇用し、自社で育成する方針を取ることにした。「ガラスの工事に直接携わらなければ、施工店としての意味がない。新しいガラスの取り付け方法を自社で積極的に学び、自分たちで取り付けることを基本にしたい」という紀世治の強い思いもあった。この社員工事部制を導入するガラス工事店は、かなり珍しい形態である。

こうして社員が中心となって工事を行い、仕事量が多い時に社外の職人に応援を依頼する体制が整った。ガラスメーカーが新しい工法の製品を開発した際も、当社では協力会社の職人ではなく、工事を担う社員が研修を受けていたため、メーカーからの信頼にもつながった。工事現場においても、社員が現場監督とのやりとりに責任を持って受け答えをし、信頼を得ている。当社は工事品質を保証しつつ、柔軟な対応ができるようになったのである。

1970(昭和45)年時点で10名だった社員数は、1975(昭和50)年に20人になり、その後30名を超え、徐々に増やしていった。1969(昭和44)年10月に竣工した新社屋には独身寮もあり、人材を集めやすい条件を整えていた。縁故での採用がほとんどだったが、ガラス工事店の子息などが九州や四国、関東から来ていた。

慰安旅行で労をねぎらう

盆休みや正月などの長期休暇を利用し、慰安旅行も盛んに実施された。初めての慰安旅行は、1975(昭和50)年の沖縄で、施政権がアメリカから日本へ返還されて間もないころであった。その後も国内旅行を予定していたが、社員から海外を希望する声があがり、1980(昭和55)年にシンガポールとインドネシアのバリ島へ行った。その後は経営状況に合わせて慰安旅行を計画するようになり、1985(昭和60)年以降の好景気に後押しされた時期は、ハワイやオーストラリアに毎年のように行き、リフレッシュしていたという。海外旅行を楽しむことにより、当社の社員は仕事へのモチベーションを高めていったのである。

1983(昭和58)年10月末に迎えた37期決算では、当時の過去最高の売り上げを達成。社員数は28名になり、1990(平成2)年のオーストラリア旅行は社員とその家族を募って、80名規模での慰安旅行となった。早朝や深夜、日曜日や祝日の出勤もある中で、家族を含めて社員を大切にしたいという思いからであった。家族を連れて慰安旅行に行くことにより、家族同士が顔見知りになって、これまで以上に仕事への理解と協力が得られるようになった。

慰安旅行

シンガポールとインドネシア・バリ島への慰安旅行(1980年)

柏栄会による社内行事の充実

1962(昭和37)年に結成した親睦会の柏栄会は、紀世治が代表取締役に就任した1974(昭和49)年ごろから活動が活発化。行事の度に会社が資金を補助し、活動を支えてきた。

春は大阪造幣局の桜の通り抜け、夏は大阪天満宮の天神祭に合わせて宴席を設けることが恒例となった。現在も継続され、開催の度に工夫をこらし、幹事を中心に楽しめる企画を検討。社員のコミュニケーションの活性化につながっており、また、全社で行う行事以外にも、ゴルフ会などのサークル活動が活発に行われている。

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