境政一郎商店の創業
鴻池組の仕事を譲り受けて独立
政一郎は25歳になった1925(大正14)年8月、鴻池組のガラス店として個人事業の境政一郎商店を創業。政一郎が代表者としてガラス工事の手配や小売業を行い、中山は番頭格として営業を担当し、町のガラス店からガラス工事業へと移っていった。事業拠点は大阪市西区本田で、港に近いこの地域にはガラス販売店が集積し、ガラスメーカーから船で運ばれる製品を扱っていたため、利便性の高さが魅力だった。建物は2階建てで、1階は仕事場、2階は家族の生活の場となっていた。創業後すぐに政一郎は結婚して、創業の時期に長女が誕生するという、公私共に多忙で充実した時を迎えていた。
創業当時は、境硝子店時代から取引があった鴻池組の仕事が中心であった。鴻池組のガラス工事を一手に引き受けていたこともあり、鴻池組の担当者がよく境政一郎商店へ立ち寄るなど懇意な間柄だった。また、当時は住宅のガラスの入れ替えや、建具屋にガラスを納める仕事も多く、これらの小売業が売り上げの3割以上を占めていたため、事業の滑り出しは順調だった。
このころ、ガラス工事を行う職人はほとんどが一人親方であった。大きな仕事の時は一人親方を4~5名で組ませて、請け負わせた。政一郎は毎月月末と15日に職人へ賃金を支払い、労をねぎらって軽い宴会を開くのが常であった。
境政一郎結婚当時(1938年)
戦時中に岸和田市へ疎開
1941(昭和16)年12月には太平洋戦争が始まり、次第に大阪にも戦火が及ぶようになった。政一郎は、1945(昭和20)年に岸和田市内へ家族を連れて疎開するが、その間も大阪市西区本田へ通い続け、仕事を続けた。しかし、1945年の空襲にて本田の店舗と住宅、家財道具の全てを失ってしまう。仕事の再起が政一郎の急務となった。
戦後の仕事は、難波や道頓堀、湊町界隈の焼け跡からガラスの破片を回収し、湊町駅から日本板硝子の工場に送ることだった。材料が不足しており、ガラスの破片(カレット)が、板ガラス製造の原料の一部になっていた。仕事を担ったのは、敗戦で職を失った満州や朝鮮半島などからの引揚者であった。当社はガラスの破片を提供したことで、新しい建材ガラスを手に入れやすくなり、建設会社の多大な要求に応えることができた。この仕事について政一郎は後年、「小山居平氏からの助言で始めた仕事であり、かなりの財を築くことができた」と家族に話した。小山氏は政一郎が懇意にしていた人物である。
1920年の境政一郎(前列左)、境幸太郎(前列右から2番目)