境紀世治が代表取締役に就任
大浦聰雄が退任し、境紀世治が3代目の代表取締役に
1974(昭和49)年5月、病気療養中であった大浦聰雄が急逝。大浦の後継者として期待されてきたのは境紀世治であったが、まだ30歳で会社を牽引していくには若く、現場の職長らへの営業など、重要な仕事を抱えていた。そのため、代表取締役に適した人材を探し、当社は大林組やガラスメーカーにも相談を重ねていった。
10月の決算は大浦の代理として紀世治が行ったが、数カ月が過ぎても適任者が見つからず、最終的には、大林組の社員の中から探すことにした。それを受けた大林組からは、紀世治の就任が適切であり、うまくいかない場合は再検討するという見解が示された。そして1975(昭和50)年2月、紀世治は代表取締役に就任したのである。
大林組の創業100周年記念式典にて(1988年、右から3番目が境紀世治)
経営の立て直しを図る
紀世治が就任したころの当社は、3億円近い売り上げに達していた。業界のトップが3億円超という時代で、トップクラスにしっかりと追随していた。しかし内情は、安定経営というにはほど遠い状況で、債務超過にはなっていないものの、大浦からは会計状況の洗い出しを勧められていた。紀世治は代表取締役の就任後、取引先の協力を得て確認作業を行い、経営の立て直しを図ってゆく。
大浦と紀世治で行ってきた営業活動については、取引先との親密な関係を築くことが必要だと考え、現場営業を担う番頭を新たに置き、紀世治と同年代で現場担当をしていた3名を担当とした。突然の業務変更で、名前を覚えてもらうまでの苦労はあったが、紀世治は「とにかくお客様のところに行き、分からないことがあればお客様に甘えて教えてもらったらいい」と励ました。まずはかわいがってもらい、その間に実力を付けてほしいという思いであった。ゴルフが流行り始めたころで、ゴルフクラブを握ったことのない3名を紀世治がコースに連れ立ち、お客様に誘われた時にはお付き合いができるよう、手取り足取り教えた。
紀世治の代表取締就任時、大林組のガラス仕事に関しては、ライバル企業と50%対50%の割合で受注していたが、徐々にその比率は高まっていった。