高度経済成長期を迎えて
関西板硝子工事協同組合の発足
戦後10年を迎えても日本の住宅不足は深刻で、271万戸が不足していると算定された。この課題を解消するため、日本住宅公団(現・独立行政法人都市再生機構)が1955(昭和30)年7月に設立され、大規模な団地やマンションの建設が計画された。団地の第1号は1956(昭和31)年に竣工した大阪府堺市の金岡団地で、ダイニングキッチンが日本で初めて導入され、「団地族」という言葉も生まれるなど、人々は団地住まいに憧れを抱くようになった。
日本住宅公団のガラス工事の仕事は、組合員に発注されることとなった。そこでガラスメーカーの指導の下、1956年4月、関西板硝子工事協同組合が発足し、ゼネコンの仕事を請け負っているガラス工事業者で構成された。当社も加盟し、日本住宅公団の仕事や大規模案件を受注できる体制を整えていった。
関西板硝子工事協同組合九州旅行・集合写真(1962年)
日本経済の成長を追い風にして
1956(昭和31)年7月、日本政府は経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言。前年の国内総生産が戦前を上回り、戦後の復興期から高度成長期へと大きな一歩を踏み出す。当社においても仕事量の増加と共に、運送は二輪車から三輪車に変わり、そして1960(昭和35)年ごろには四輪の自動車を自社で所有するようになった。
当時使用していた三輪車、四輪の自動車
初めて購入したころの四輪自動車
また、大阪市内では、梅田から中之島にかけて、有力企業の大型オフィスビルの建設が相次ぎ、当社も新住友ビルの工事を受注した。新住友ビルは1962(昭和37)年の竣工当時、関西一となる延べ床面積約9万㎡を誇り、地上12階、地下4階建ての大規模な案件であった。
業績が伸びる中、1962年ごろには社員同士で親睦を図るため、柏栄会が結成されている。会社がボールやラケットなどの道具を支給し、野球やガラス板を台にしての卓球などの活動をしており、社員間のつながりが深まっていった。