History

沿革

柏商会100年のあゆみ

前史

創業からのあゆみと、発展の軌跡

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大林組との取引を開始

大林組からの受注で事業を拡大

当社が事業を大きく発展させることができたのは、土木建築請負業を営む株式会社大林組からの仕事が得られるようになったことが大きい。大林組は1892(明治25)年1月に大阪市西区で創業し、すでに全国的に事業を展開していた。当社とのつながりが生まれたきっかけは、戦前に硝子職人の能勢常三郎氏に大林組を紹介してもらったことである。大浦聰雄が入社してきた1945(昭和20)年ごろより、大浦を中心に大林組への本格的な営業が始まった。

大林組への営業は、大浦聰雄が担当した。大浦は同志社大学を卒業後、和歌山県有田郡湯浅町の役場で働いていたが、政一郎の実家の紹介で当社に入社。政一郎の長女(千恵子)と結婚し、政一郎の右腕として会社を支える役目も果たしていた。字がきれいであったため、大林組の資材部の担当者に気に入られ、注文書などの書類書きを大浦が引き受けるようになり、徐々にガラス工事の受注が増えていった。また、大林組を経営する大林家の家紋が、3枚の柏の葉を丸で囲んだ土佐柏であることや、大林組の社員OB 会の名称が柏会であることから、柏商会という社名が大林組の関係者に、親近感を抱いてもらえるという利点もあった。

旧阪神百貨店

旧阪神百貨店(第1期工事・1941年竣工)

当時は戦争の傷跡が色濃く残る時期で、大林組は、工場の復旧や進駐軍の家族住宅などの工事を受注していた。大林組では当時、矢口硝子にガラス工事を発注するのみで、他社との取引はなく、ガラス工事の発注先を増やしたいという意向があった時期だと考えられる。そこへ当社が参入し、旭硝子の工事を矢口硝子、日本板硝子の工事を当社が請け負うようになった。

当時の一般的なガラス工事店の体系は、大きな会社の場合、社長を含めて現場営業が4名~5名程度、小売や細々とした仕事を行う作業員が3~5名、事務員1名、現場を担う職人は20名前後であった。大工職人や建具店、小規模な工務店のみとの取引でもガラス工事店が成り立った時代であるが、当社は大きな仕事に足を踏み入れたのである。一方、鴻池組は戦後3社購買となり、仕事もそれぞれ3分の1ずつとなった。

日本板硝子若松工場前

日本板硝子若松工場前にて(最上段の右から5番目が境政一郎)

1950年ごろの仕事とジェーン台風

1950(昭和25)年ごろの家庭用窓ガラスの種類は、透明と摺り、型板があったが、いずれも2mm と薄く、割れ替え需要が多かった。また、1950年8月末から9月にかけて、日本各地で大きな被害をもたらしたジェーン台風が発生した際には、大阪府内でも家屋の全壊や半壊、流失や浸水など、甚大な被害が発生し、窓ガラス関係の業者は多忙を極めた。

当時のガラスは、3尺×6尺もしくは4尺×6尺の大きさで、複数枚をまとめて木箱に入れて販売していたため、木や釘、ガラスの間に挟む紙の需要も増え、各業種が潤った。ガラス工事会社では、購入したガラスを職人が1枚ずつ、窓ガラスの大きさに合わせて切断。切ったガラスを運ぶ際は、枚数に応じて、自転車やリヤカーを使って自社で運ぶか、運送業者へ依頼していた。ガラスの運送を担っていたのはガラス問屋で、問屋はガラスの販売と運送のほか、倉庫業や金融業、運送業を兼ね備えており、資金繰りが厳しい時に債権を棚上げしてくれることもあった。

資本金を200万円に増資

当社は社員や職人を増やし、大型案件を受注できるようになり、売り上げの拡大につなげていった。ただ、当時は仕事の対価は工事完了から1カ月後に約束手形で支払われることが多く、現金化できるのは約180日後であった。そのため経営面では、社員や職人への給与を支払うための運転資金への苦労がたえなかったという。

そのような状況の中、当社は1954(昭和29)年12月に資本金を200万円に増資している。

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